7人の虎の子へと綴る戒め


2022年3月25日、TravisJapanがLAへと旅立った。
突然発表された渡米宣言から、凡そ3週間。
相変わらずのメディア露出、その中で何度も言及されて沢山の方に行ってらっしゃいと送り出され、あれよあれよという間にこの日を迎えた。
正直な所を言うとまだ気持ちの整理が出来ていない、というのが本音ではある。
元々前向きだったトラジャの7人は、日を追う事に更に前向きに自分達の未来の行く末を楽しみにしている様子が伺えた。いや、もしかしたら漠然と襲い来る不安に潰されないよう明るく振舞っているのかもしれない。それでもきっと彼等の中にあるのは不安と、同じ位の期待なのだろう。
それに比べて、ファンの反応は五分五分と言った所。大好きな彼等が決めた事だから、と前向きなコメントをする人もいれば、それでもやっぱり寂しさが拭えないと嘆く人も多い。

私も、その中の一人である。
彼等が決めた事だから勿論応援したい、という気持ちも大きい。行ってらっしゃい、と笑って送り出したかった。
でもそれよりも、寂しさや不安が拭えきれない。結局の所、最後の最後まで涙を飲みこんで送り出す他無かったというのが事実だ。

彼等が日本に居ないという事実。
それは私の心にぽっかりと穴を開け、空虚を感じさせるには充分であった。

ところで、私が感じている不安と言うのは恐らくTravisJapanが感じている不安とは一味違うだろう。
勿論、彼等と同じように彼等が異国の地で無事に生活していけるだろうかとか、結果を残していけるのだろうかとか、元気に過ごしていけるだろうかとか、そういった不安もある。
しかし、それとは別にファンとしての感情の中で何よりも恐れている事がある。
―――彼等への気持ちが薄れてしまうのではないか。
それが何よりも一番怖い。

時は少し遡るが、私は昨年の5月に『PRODUCE 101 JAPAN SEASON2』というオーディション番組にどハマりした経歴がある。
国民プロデューサーと呼ばれるファンの投票数で、上位11人がデビュー出来るという韓国なんかでは割とメジャーなオーディション形式の番組だ。
友達にとあるバズり動画(🔎花束の代わりにメロディーを 日プで検索)を見させて貰ってから、アイドルの原石とも呼べる人を見つけた。
私がハマっていた期間はたったの1ヶ月半程度だったが、それでも私は推しをデビューさせたくて必死だった。沢山の人を巻き込んで投票をお願いして、毎週木曜日の放送を固唾を飲んで見守った。
しかし、私の推しは結局デビューを掴む事は出来なかった。
その間メディア露出は一切なく、彼の生存確認が取れたのはInstagramのストーリーの投稿のみ。
ようやく彼がデビューを掴み取ったのは約5ヶ月後の11月だった。所謂派生グループとしてのデビューである。
勿論デビューが決まった時は嬉しかったし、涙を流して喜んだ。でも、結局彼等のグループを推せる程の熱量と言うのは、もう既に失われつつあったのも事実である。勿論、彼の露出の少なさだけが熱量を失う原因だった訳ではない。ただ結果的に残ったのは、所謂"茶の間"として彼のいるグループを見守るという選択肢だった。

今までに挙げた事のある通り、私は色々なジャンルでオタクとして生活をしてきた。つまり、数々のジャンルに推しを作ってきた流動的なオタクである。
勿論、今まで応援してきた推しに対してマイナスな感情を持って応援を辞めた訳ではない。不変的に私の中で特別な推しも少なからずいる。それでも、自分の中の所謂全盛期、一番熱量を伴って応援していた時に比べれば落ち着いているのも事実で。

それ故に、不安なのだ。彼等が帰ってきた時にTravisJapanというグループを今と同じ熱量で応援出来るかどうかが。とても恥ずかしい事でもあるが、熱しやすく冷めやすいタイプのオタクであるので、ここを今どうこう治そうと思っても無理な話なのである。

今は寂しくて当たり前。寂しいと声に出してもいい、と言う。
寂しい。凄く寂しい。同じ空の下にいても会えない事が。いつ会えるかも分からない事が。

自分達が居ない間は他に目移りしてもいい。だけど、自分達の事を忘れないで、と言う。
忘れるはずがない。楽しいも辛いも悲しいも嬉しいも共有してきた彼等の事を。だけど目移りした後、彼等に戻れる自信のない自分が、やるせない。

私の中でTravisJapanというグループは、いい歳になって出会った最高のアイドル達だ。愛おしい、出来るならばずっと応援していたい、と思えるグループである。
最強のダンススキルを持って、最高のパフォーマンスを届けてくれて、私に生きる元気をくれる、言わば心の栄養剤である。
残酷さすらエンターテインメントだ、と言える程出来たエンターテイナーを、私は宮近海斗というアイドルしか知らない。
その残酷さがまた彼等を襲わぬよう、私は遠く日本の地から願う事しか出来ない事が、またやるせない。

とあるファンの方がこんな言葉を残してくれた。


私はこの言葉に少しだけ救われた。どのメディアを取ってもTravisJapanが最後のように扱われている事が、私は寂しくてならなかった。
彼等の決断は決して終わりなんかではない。新たな一歩を踏み出す為の決断なはずだ。

彼等の最初のオリジナル曲『夢のHollywood』の二番冒頭の歌詞にこんな一節がある。

過ぎた一幕は積み上げるExperience
俺達の二幕 Life is Musical

彼等は日本での活動で沢山の経験を積み、二幕の幕を最高の形で開ける為に渡米した。その一つが彼等の言う『デビュー』という形でもあるのかもしれない。

日本を経つ直前、最後のYouTube生配信で彼等がダンスで私達ファンに向けて届けた一曲。
嵐の『サクラ咲ケ
彼等の磨かれたダンスと、今の彼等にシンクロする歌詞に涙が溢れた。こんなにダンスが上手いのにそれでも尚、彼等は上を目指している。そして、その為に日本のメディアと応援してくれているファンと、一時の離別を選んだ。それでも彼等は別れじゃないと言ってくれた。そんな彼等の決断を、いつか笑って後押し出来るようになれば、と願う。

未来なんてさ すぐに変わる
変えてみせる

沢山の可能性を秘めた彼等が歩む未来が明るいものである事を願わずには居られない、そんな一曲だった。

彼等がLAに降り立った今日、日本は3月26日。
一粒万倍日、天赦日、寅の日が重なった最強開運日である。
まるでTravisJapanの為の日なのではと錯覚させられる位の良き日に、始まりを告げた7人の虎達の武者修行の旅が無事に成功し、今より大きくなって帰ってきてくれる事を祈るばかりである。
そして、そんな7人をずっとずっと遠くの地から応援する私の気持ちが、彼等に向き続けるよう戒めを込めて私はこのブログを綴る。

巡り会いたい 必ず

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いってらっしゃい!実りある旅を!


ななにんぼっちのリメンバーミー


TravisJapanが渡米を発表した翌日、金曜ロードショーでリメンバーミーを見た。

リメンバーミーは日本語に訳すと『私を忘れないで』

あまりにタイムリーで、あまりに歌詞が今のトラジャと重なって見えてしまって、映画の内容と合わせて涙が止まらなかった。

彼等のしきりに言う『遠くにいても、離れていても心は繋がっている』という言葉。
リメンバーミーの歌詞は、まるで彼等と、トラジャ担の心の代弁のように見える。

一時の別れではあるけど、忘れないで欲しい。応援し続けて欲しい。
離れていても、ファンの為に歌を、ダンスを、自分達のありのままを届けると言ったTravisJapan。

それに私達は忘れはしないと、彼等の残した歌は、ダンスは、思い出は、私達にとって何にも変えられない特別なものだ、と。
その思い出を胸に抱いて、また会える日を信じて待とう、と。応援し続けていきたい、と。

新聞の一面に沢山取り上げられた。こんなに沢山の紙面に取り上げられた事は、かつて無かっただろう。
どれも背中を押すような、前向きなコメントが揃っていた。メンバーのコメントも、これらを書いた記者の言葉も。

昼夜問わず、ジャニーズWebには先輩方からの激励と、その決意を賞賛する言葉が並べられた。
頑張れ。お前らなら出来る。成し遂げて、大きくなって帰ってこい、と。

そしてその先輩達が揃うジャにのちゃんねるでも、いち早く先輩方に報告する様子を収めた映像がアップされた。
ニノから手渡された餞別と、一言。

『えん』で持って行って、『えん』で持って帰って来て下さい。

向こうで沢山の『えん』を結んで、その沢山の『えん』を持ち帰って糧にして欲しい、という意味もあるんだろうか。素敵な言葉だと思った。
海外で数々の挑戦をして、数々の功績を残した先輩だから言える事で、本当に偉大な先輩だしそんな先輩の背中を見て育ったTravisJapanもきっと、同じ様になれるんじゃないかと思わされた。

そしてこの2日間で改めてTravisJapanというグループは、沢山の人に愛されているグループなんだという事を実感した。

日本での沢山の『えん』を糧に、彼等は目に見えない大きな壁に立ち向かおうとしている。異国の地で前人未到の挑戦をしようとしている。

でも彼等は"ひとりぼっち"じゃない。
"ななにんぼっち"で、挑みに行くのだ。
きっと、お互いがお互いにとって心強い味方なはず。そして、皆で切磋琢磨できる素敵なライバルなのだ。

まだまだ彼等の決断を咀嚼して、飲み込むには時間が掛かると思う。色んな媒体を見る度に居なくなる実感が沸くんだと思う。
居なくなってからも、TVで、雑誌で、いなくなった姿を探してみては落ち込んで、彼等に思いを馳せるんだろう。

でも彼等が目の前から完全に消える訳じゃない。

会えなくて寂しい夜は、きっと彼等なりに心を寄り添わせてくれるのだろう。
遥か彼方、10,144kmの遠くの地から、彼等の音は私達を優しく包み込もうとしてくれるのだろう。
私達は彼等の愛に支えられ、そして私達の愛を持ってして、彼等を支え続けていくのだろう。彼等を誰より応援して支え続けて、この国で彼等の居場所を作り出せるのは、私達ファンだから。
いつ帰ってきてもいいように。彼等が笑ってただいま、と言えるように。

ななにんぼっちの彼等が胸を張って私達の前に立つ日が来るまで。
また7人の素敵なアイドル達と逢える日が来るまでは、何時でも会える夢の中で、私達と彼等を繋ぐ音を聴いていたい、と思う夜。

夢が夢で無くなる不確定な未来へ


2022.3.3。大好きな7人が、大きな決断を世界に発信した日。

そのニュースは瞬く間に日本、世界へと発信されてエンタメ界を震撼させた。


TravisJapan。通称トラジャ。ジャニーズ事務所の7人組アイドル。ダンスを武器に音楽業界、アイドル戦乱時代を生き抜くグループ。

今やその人気は高く、メディアにも良く取り上げられてその名を徐々に徐々に日本へと知らしめている。それでもまだ、CDデビューを果たしていない、所謂ジャニーズJrと呼ばれる彼らは、苦節10年、数多の苦難を乗り越えてきた。


ようやく軌道に乗ってきた、と誰もが思っていた最中、重大発表と称して彼等が伝えてきたメッセージは、誰一人として予想していなかったに違いない。


3.3の21時、自身のInstagram LIVEにて発表された『国内無期限活動休止、及び武者修行の為渡米』

つまり、日本での仕事を全て休止して、アメリカに渡るという事。


あまりに衝撃だった。リーダーの宮近くんがわざわざ紙に書いてまで発表したその事実が、私の心に重くのしかかった。


何故、どうして、それ以外考えられなかった。

その考えが頭を支配して、メンバーの言葉が頭に入ってこない。

聞けば、歌、ダンス、語学、色々なスキルを磨いてくるのだという。

向上心がある、というのは良い事だ。人は向上心無くして良い物を作り上げる事は出来ない。


だが、それは本当に今必要なのか?

今でなくてはいけないものなのか?

それは、私達の目の届く所では叶わないことなのか?


ダンスを武器に、というのはTravisJapanが結成された時からメンバーが変わろうとも守られ続けてきた信念だ。それは、結成当初からのファンでなくてもTravisJapanを知る人なら誰もが知っている事実である。

それに付随してYouTubeでチャンネルを持たせて頂く位、彼らのダンスは唯一無二の武器である。

それは、分かってるのだ。

そして、それを磨く為に渡米するのだ、と言う事も理解は出来る。

理解は出来るが、納得は出来ない。

ましてや彼等にしか出来ない、と思っていたそのチャンネルすら、一時他のJrに託す、というのだ。納得なんか行く筈がない。

それが正直な気持ちだ。


重大発表と銘打った大事なお知らせ、は思っていた以上のものだった。

私も始まる前はツアーかなぁ、それとも別の何か?もしくはデビューしちゃったり???なんて呑気に構えていたものだ。

まさか、まさか。こんなお知らせを聞くことになるなんて。


涙が出た。遠い地に行ってしまう7人に。

いつ帰ってくるかも分からない、彼らに。

本当に帰ってくるかも分からない、未来に。


2年前から話が上がっていたこの決定事項に腹が立った。何故、今なんだ。その前に日本でやる事がまだまだあるだろう、と。

2年もの間、彼らにデビューするチャンスは無かったのか?デビューしてからでもその武者修行は遅くはないのではないか?


たった1枚のCDを出すか、出さないか。

それだけでこのジャニーズという大きな組織では活動から何から変わってくるのだ。


彼らはしきりに『離れてても応援して欲しい』『ずっと心は繋がってる』と言う。

確かに空は繋がっている。一つ大きな空の下、私達は同じ様に呼吸をして、生きている。


でもそうじゃないんだよ。私達は、ステージで輝く君たちを見たくて、君たちをずっと応援しているんだよ。

7人の歌声、7人のダンスを生で感じて、あぁ、この人達を応援してて良かった、と実感したいんだよ。


各媒体で沢山の言葉を紡いで、彼等は私達へ愛を届けてくれている。それはこれからも大きくは変わらない、と言う。

だけど、会えない。彼等がステージ上でスポットライトを浴びて、歓声を浴びて、キラキラ輝いている姿を、見る事が出来ない。


それが何よりもツラい。

彼らに直接声を届けて、そのパフォーマンスに拍手を送ることが出来ない事が、寂しい。


彼らは『今よりもっといい景色を見たいし、見せたい』と言っていた。

いい景色、とは何なんだろうと考えた。

アイドルというお仕事は、沢山のファンや関係者に歌って踊る場を作ってもらって、それをパフォーマンスで返すお仕事だと、私は思う。

私達はより良い舞台、ステージを沢山のファンで提供して彼らのパフォーマンスを見て、感じて、そこに声援を送ることで元気や勇気を貰っている。

それはコンサートだけじゃなくて、例えば雑誌の総選挙のようなものだったり、TV出演へのリクエストだったり、多種多様なものだ。

私の思う良い景色、とはそういった媒体やコンサートで彼らの姿を見る事、が自分の中での良い景色だと思っている。

そして、そう思うファンは沢山いるんじゃないか、とも思う。

彼らが沢山テレビに出て、雑誌の表紙なんかを飾ったりして、毎日メディアに引っ張りだこで見ない日はないな~、と思う。ライブに行って生のパフォーマンスを浴びて、今日も良かった。格好良かった、TravisJapan、最高だよね、と思う。それが一つの良い景色の形なんじゃないかと。

TravisJapanにとっても、沢山のファンに応援してもらって、沢山の人に知ってもらって、そのパフォーマンスを、自分達の武器を、最大限に見てもらう事が、良い景色なのではないか、と思っていた。


しかし国内での活動休止を余儀なくする、ということは今までのファン、これから獲得する筈だったであろう未来のファンを、少なからず手放す事になるのではないか、と私は思う。


なんて言ったって彼らはまだデビュー前の道半ばなはずだ。デビュー、という一つの目標の為にファンと一丸になって頑張ってきたのではないのか、と。

あれだけしきりにデビューします!と言ってたではないか。

寅年はTravisJapanの年にします!と言ってたではないか、と。


そのリスクを負ってまで、彼らは渡米という道を選んだ。その選択をするまでに、彼等も沢山悩んだだろう。凄い決断であるのは間違いないのだ。

それは、分かっている。が、それは今で良かったのだろうか。私は未だ疑問である。


私達の声援だけでは足りなかった?

私達の愛だけでは、充分でなかった?

先日のJr大賞、TravisJapanは大きな結果を残した。各部門の上位を総ナメし、花形部門である恋人にしたいランキングに全員TOP10入りという快挙も果たした。

それだけ沢山の人間が、彼等を応援しているのだ。目に見えて分かる結果にすら、彼等には届かなかったのだろうか……と悲しさすら募った。


それでも彼等は、彼等が決めた道を進むのだろう。良くも悪くも、結果が出るのはまだ先の未来の話だ。


夢のHollywood、憧れのドリームステージ。

彼等はそれを夢で終わらせない為に、その夢を掴み取る為に、駆け上がっていくのだという。

その選択肢が、今回の渡米だった。


日本を離れ、異国の地で7人、やれる事を最大限やってスキルアップして帰ってくる、約束します。彼等はそう言った。


何度も何度も『後悔はさせない。離れていても心は一つ。寂しい思いをさせるかもしれないけど、俺たちは前向きだから、応援してて』と、7人が口を揃えて言っていた。

不安が無いはずがないだろう。私達も不安だが、彼等だって不安なはずだ。

なら、彼等の言う良い景色、夢が夢で無くなる瞬間を、いつかこの目で見てみたいと思う。

7人が7人でいてくれるなら、頑張って欲しいとも思う。


それでもまだ、やるせなさは残るばかり。

心から背中を押してあげられる日が、早く来て欲しいと祈る事しか出来ない。


そして、ただ今は7人が健やかでいて欲しい、と願うばかりである。



大好きな2人が永遠で無くなった日






永遠に続くと思ってた7人が永遠で無くなった2018年春。




永遠に共にいてくれると思っていた2人が決別の時を迎える2019年秋。




2019年9月30日を以て、錦戸亮ジャニーズ事務所を退所する。




なんで、とかどうして、とか言いたいことはいっぱいある。ずっと同じ位追い掛けていればよかったっていう後悔もある。




それでも私の中では常にどんな事があってもまるりょは永遠の推しコンビだった。




12年前、錦戸亮を好きになってからずっとずっとまるりょを見てきた。それは丸山担に降りてからも変わらず、わたしの中心はまるりょで回っていた。



まるりょって昔は今ほどフューチャーされてなくてまぁ需要なんてものはほぼ無かったに等しい。彼等にはそれぞれシンメと呼ばれる相方のような存在がいたし、本人達もそんなに心が通じ合っているようには見えなかったし当時はほんとにそうだったんだと思う。




それでも丸山くんは持ち合わせた慈愛の心で錦戸にも接してくれていたし、錦戸もそんな丸山くんと同じ高校にくっそ遠いところからわざわざ通ってしまう位には懐いていたし、唯一年上を年上と扱わないところもありつつそれが錦戸の甘えだときっと気付いていた丸山くんがいただろうし、そんな複雑なピースがまるで綺麗に合わさってまるりょは存在していて、わたしはその関係性がとてもとても大好きだった。




あほなことしてゲラゲラ笑い合うまるりょが大好きだった。




グループが解散の危機を迎える位の大喧嘩(🔎角煮事件)をしてしまうまるりょが大好きだった。




錦戸にビビってる癖に時折距離感がおかしくなるまるりょが大好きだった。




まるりょが2人でハモるパートが大好きだった。沢山沢山あったね。



わざわざマイカメラ持参して錦戸を困らせちゃう丸山くんが大好きだし、やんや言いながら困った笑顔で強く怒れない錦戸のそんな関係が大好きだった。わたしの真のほほえみデートは高尾山ロケだよ。間違いない。




ほほえみデート以降丸山くんが大好きだと世間に認識される錦戸亮が愛おしくてたまらなかった。時代がようやくまるりょに追い付いたと思った。




私が見てきた12年間の関ジャニ∞は、12年間のまるりょの歴史そのものだった。




まだまだ見ていたかった。まるりょが私の青春を彩ってくれた。こんなに大好きになった2人今までいない。並んでくれるだけで心が踊る経験まるりょが初めてだったよ。




拝啓まるりょの二人へ。




共に過ごしたこの数十年は、幸せでしたか?




苦楽をともにして歩いてきた今までの人生は、幸せでしたか?




私は二人に出会えて、幸せでした。




明日からはもう同じグループのメンバーでも、同じ事務所の仲間でもない。




隣に並んで歌って、楽器を弾いて、しょーもないことで笑う2人が見られないことが本当に本当に悲しい。苦しい。辛い。





それでもお互いが選んだ道ならば、今は別れ道に立ったとしても、いつかどこかで、また同じ道に立って並んで歩く日が来るかもしれない。




そんな淡い期待を持ち続けながら、私も日々を生き続けようと思います。





大好きな大好きな2人が、そして大好きな大好きな7人が、いつかまたどこかで笑い合う日が来ますように。








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人生のほぼを事務所と過ごしている話



物心ついた時から、気付いたらジャニーズが生活の一部でした。





母はデビュー当時からKinKi Kidsが大好きで、縦長ジャケット8cmのデビューシングルをいつまでも大切に持っていたし、母の妹は数十年前にV6を追って台湾までライブに行く位熱烈なファンだったし、そんな中で育った私は、ジャニーズという男性アイドルが生活の中になんの違和感も無く入り込んだ日々を送ってきたように思う。



1番初めにジャニーズをかっこいいと感じたのは堂本光一くん。私の中では白スーツの似合う白馬の王子様の様な存在。齢5歳位にして母の影響モロ受けだった。でも自担グループのメンバーが舞台でお世話になってきたり、この人ありきのジャニーズ。今でもKinKiは私の憧れのアーティストであることはずっと変わらない。



初めて自分の意思でジャニーズを追い掛けるキッカケになったのは意外にもTOKIOの松岡くんだった。小3の時に見たナースマンがキッカケだったのは何故か今でも鮮明に覚えている。両親がバンドマンだったことも重なり、バンドに興味を持ち始めたキッカケはTOKIOだった。



それから、小4で当時仲の良かった友達が嵐の二宮くんが大好きだったのをキッカケに、ラジオを聴いたり友達の家に行けば嵐のDVDを見たりと本格的にジャニーズの沼に足をズブズブとつっこんでいった。

当時の嵐は人気が右肩上がりの時でサクラ咲ケがリリースされて、私もPVと当時のMステの録画をひたすら見る日々だった。そしてニノのラジオは毎週カセットテープに録音していた。カセットテープ懐かしすぎる。そして、ニノのソロは未だに痕跡がダントツで好き。



小5の時にYa-Ya-yahと出逢って、金八先生を見て薮くんにハマった。初めて担当と名乗ったのは薮くんが初めてだったかな。当時夜更かしを禁止されていたから、親に内緒で2階にある小さなブラウン管テレビで毎週ひっそりとリアタイしてた記憶が朧気にある。あと、この頃は忍たま乱太郎のEDだった「世界がひとつになるまで」がマイブームで、それが目当てで忍たまも見てた。

この頃から周りにジャニヲタが増えて、女子の間でジャニーズがブームだった。みんなで分担して雑誌を買っては切り抜きを交換して。ようやったな小学生。



6年生〜中1時は自担の入れ替わりが一番激しかった迷走期。くそミーハーだったから相葉ちゃんもかっこいいな〜でもみんなかっこいいな~なんて言いながら時代はごくせんが大大大ブーム、KATーTUNがどこもかしこからも引っ張っりだこで、中丸くん大好き〜なんて言いながらミンテレやはねトビなんかをがっつり見てた。小6の修学旅行に皆でジャニショや闇ショの自担の写真を持ち寄って、鎌倉の海で写真の撮りあいっこをした。やばい、今とやってること大して変わらない。海賊魂は飽きる程友達と見た。



そして06-07のカウコンで関ジャニ∞錦戸亮にまんまと落とされた。正直えいとの事はそんなに好きじゃなくて、仲の良かった友達が渋谷と村上に毎日のように沸いていたのも理解出来なかった。特に錦戸は色々なドラマで知名度もそれなりにあって、でも当時の私はなんでこんなブサイクが掛け持ちしてんの!?ってずっと思ってた(失礼)のに、カウコンで関風ファイティングを歌ってる姿を見てガッツリ落とされた。

今思えばここが大きな分岐点その1。



それからは毎日が錦戸を中心に生活が回ってた。ちょうど活動を休止していたNEWSがこの年のカウコンを機に復活してオタ活も充実してたし、中学生になった私は毎日部活にも励みつつ部活仲間や学校の仲の良いジャニヲタ達とも、暇さえあれば鑑賞会をしたりと、オタ充リア充の両立って感じだった。



2007年と言えばえいとは47都道府県ツアーがあって、私は好きになって約5ヶ月位で初めてジャニーズのコンサートに行った。

母は確かにジャニーズが好きだったけど所謂茶の間のファンで、コンサートにまで足を運ぶタイプじゃなかったから自分の意思でライブに行ったのはこの時が初めて。生で初めて関ジャニ∞を見た時の感想は"生きてた"。

この頃は前略だったりモバゲーだったりスイマガが流行っていて外におたくの友達を作るのも1つの楽しみだった。この響きたちが懐かしすぎる(笑)この辺りが今のおたくの基盤になったと言っても過言ではない。この時初めて相方と呼ぶ存在が出来た。軽い気持ちで相方宣言をした当時の内担の子は、後に横山担として再会を果たした。



それから黒歴史を色々と重ね(笑)09-10の京セラ単独魂で丸山担に担降りをした。明確に担降り宣言をして降りたのはこれが初めてだった。それでも関ジャニ∞が、まるりょが大好きなのに変わりはなかったし、丸山担に降りても自分の中のえいとは錦戸が中心で回ってたし、それは今も変わらないように思う。それだけ錦戸亮という存在は私の中ではバカでかい。



2010年は再びKATーTUNへのデレ期が始まって、NMPは私の中では思い出が深い。この年のツアー中に赤西が脱退して5人体制になった。赤西が抜けた後の東京ドーム公演は未だに忘れられない。茨城から親に内緒で学校に行くふりをして休み、そのまま駅に向かってドームに通い、気付いたら東京全ステしていたのは今思うとよくやったなって思う。3日目のアンコールのNMPを見ずに音漏れを聴きながらドームを1人後にしたことはこの先も忘れないだろう。馬に乗ってアンコールに出てくる演出、凄いよね。最終日のSMILE、もう一緒に歌えないんだって、LIVEが終わっちゃうんだって泣きながら歌ったのも懐かしい思い出。ある意味純粋なオタクだったのかも。



11年辺りからえいとの目まぐるしい活躍についていけず、同時にオタクの輪に合わせるのがしんどくなったのと有難いことにリアルが充実したおかげで徐々に追うことが辛くなった。所謂冷め期に入り始めたのがこの頃から。

周りの人との熱量の差だったり、行けない現場が増え始めて悔しい思いをしたり、友達の友達が友達という構図に心苦しさを感じてしまってもう関ジャニはいいかなって思うようになった。ツアーが決まっても素直に喜べず、好きで行っていたライブが義務に感じてしまっていた。

恐らくここが分岐点その2。

よく周りの人と合わせたり自分の心に余裕が無くなると好きなものを好きと感じなくなってしまうなんてことを聞いたことがあるけど、この当時がまさにそうだった。

色々大きくなってしまった。私の手に余り零れる程になってしまった。遠い存在、コンビニ感覚で会えるような人達では無くなってしまったように感じた。


それから高校を卒業し一人暮らしが始まったり、専門学校に入って今まで以上に忙しくなったり、アニメやゲームの世界にハマったり、石川界人というこれまたバカでかい存在の推しが出来たり、気付いたら関ジャニ∞、ジャニーズのオタ活というのをしなくなった。それでも新しく出来た友達は意外にもジャニーズ上がりの人が多くて、そこから徐々に今の、大きくなった関ジャニ∞を緩やかに見るようになる。一緒に行こう、と誘ってくれる友達がいなければ、私はえいとのライブに再び行くことはなかったかもしれない。



そして他界隈への気持ちが少し落ち着いた平成最後の今年、2019年にまさかのジャニーズJrにハマるという私からしたら、とんだミラクル。正直今はめちゃくちゃ楽しい。久しく動いて踊る3次元のアイドル、これぞジャニーズというライブ見てなかった。というより見ようとしてなかったのかな。今を一生懸命に生きて、ステージに立つアイドル達が眩しい。





関ジャニ∞はデビュー15周年、私が関ジャニ∞を好きになってから12年になる。懐かしい青春の日々には常に関ジャニ∞がいた。



何があっても永遠に7人で、どこまでも進んでいくんだと思った。でも永遠なんて言葉はなかった。私が好きになった関ジャニ∞の形はもう無い。それでも残った6人は、過去を振り返ることはあれど、前を向いている。これが今の関ジャニ∞の形なんだと1年後の今、15周年を祝うステージに立つメンバーを見て、ようやく頭と心で理解出来た気がする。それでも寂しさは変わらないけれど。



奇しくも今一番に応援したいと思えるグループのTravisJapanは、何の因果か同じ7人組で、すばるくんと同じ誕生日同じ血液型同じメンバーカラーのアイドルがセンターを務めるグループで。彼等もまた、悔しい思いをして強くなって前に進もうとしている。

同世代がどんどんと大きくなって次のステップに進んで行く中で、腐らず着実に、今目の前にある仕事をこなして大きくなっていこうとする姿が、12年前に好きになった大好きなグループとどこかリンクする部分があって、正直全然好きじゃなかったのに今では大好きなグループになった。沢山の人に支えられてもっともっと羽ばたいてくれたら嬉しいと思う。

8.8のあの日、あの時流した悔し涙が、今度は嬉し涙になるといいね。



そしてジャニーズに戻るキッカケをくれたSnow Manもまた、形を変えて次のステップに進もうとしている。長い下積みを経て周りの後輩達がデビューしていく中、悔しい思いを幾度としてきた彼等にもこれから沢山活躍の場を掴んでいって欲しいと思う。初めてその存在を認識したミスノ時代から年齢を重ねて、気付いたらどストライクタイプなアイドルに成長していた阿部ちゃんには本当にビックリしたよ。発表の時は心からおめでとうと言えなかったけど、今は心から祝福出来ます。デビュー、本当におめでとう。




応援したいと思う人は増えたけど、関ジャニ∞が原点であることはこれからもずっと変わらないし、丸山くんは最高で最強の自担です。大好きなコンビもこれまた増えたけど、私の中ではまるりょがずっと1番です。2人が並ぶだけで私はいつでも嬉しいです。だからこそ、この2人だけは変わらないでいてくれますように。

シャカリキに踊るアイドルの側面と、ゴリゴリに楽器を演奏するアーティストの側面を持つ関ジャニ∞が、これからもずっと変わらず好きだと感じた令和元年。

やっぱり私の中では関ジャニ∞もアイドルだから、たまには踊っている姿も見せてくれたら嬉しい。




そして何よりもこんな素敵なアイドル達に出逢わせてくれたジャニーさんに改めて感謝したい。



"Show must go on"をずっと言われ続けてきたと皆言うけれど、そのショーを続けられる居場所を作り続けてきてくれたジャニーさんがいたからこそ、今こうして彼等はステージに立つことができている。エンターテインメントの最先端を走り続けてきたからこそ、時を経て彼等に出会うことが出来た。ジャニーさんが見出してくれなかったら彼等を知ることもなかった。



本当はもっともっと色んな可能性を見出して欲しかった。時代が変わっても色褪せることのないエンターテインメントを伝え続けられるジャニーさんが、この時代にもまだまだ必要だったと心から思う。



彼等が大好きだったジャニーさんはもういない。でも思い出話を懐かしむように笑って話してくれる彼等の笑顔はやっぱりキラキラしてて、そんな彼等の笑顔に、私も笑顔にさせてもらっている。

いなくなってからも沢山の人を笑顔にすることが出来るジャニーさんは、本当に偉大だと思う。





私の人生にジャニーズは隣り合わせだった。そんなジャニーズを世に送り続けてくれたジャニーさん、本当にありがとう。意思を引き継いだアイドル達を、天国でも見守っていて下さい。




安らかな眠りを。御冥福をお祈りします。